
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争はなぜ起こったか?街に残る傷跡と戦争の記憶を巡るサラエボ旅行記
目次
Toggleサラエボを旅する前、私はこの街を「歴史の教科書に出てくる場所」として知っているつもりでした。
1990年代に起きたボスニア紛争、サラエボ包囲戦、スレブレニツァ虐殺。言葉としては理解していても、それらはどこか遠い国の、過去の出来事のように感じていました。しかし、実際に街を歩き始めてすぐ、その認識がいかに浅かったかを思い知らされることに。
カフェのテラスで談笑する人々、石畳の旧市街を行き交う観光客、どこにでもあるようなヨーロッパの都市風景。そのすぐ足元や建物の壁に、戦争の痕跡が何の説明もなく残されています。
赤く塗り固められた砲撃痕「サラエボのバラ」。
静かな公園の一角に刻まれた、子どもたちが犠牲になった記憶。
地下に掘られ、人々の命をつないだ細いトンネル。
そして、数字と写真でジェノサイドを突きつけるギャラリー。
これらは「観光スポット」として整えられたものではありません。むしろ、日常の中に溶け込みすぎていて、注意深く歩かなければ見過ごしてしまいそうになるものたち。だからこそ、気づいた瞬間の衝撃は大きいものでした。
この旅行記では、私が実際に訪れ、立ち止まり、考え込んだ場所を通して、サラエボ紛争がこの街の人々に何を残したのかを記録しておきたいと思います。
戦争は終わりました。ですが、終わったからこそ「どう記憶されているのか」を知る必要があります。
サラエボは、悲しい過去を封じ込めるのではなく、日常の中に静かに置いたまま生きている街でした。
サラエボ紛争の原因|なぜこの街で戦争が起きたのか

サラエボの街を歩く前に、この場所で何が起きたのかを知っておく必要があります。
ボスニア紛争は、特定の出来事だけが引き金となって起きた戦争ではありません。歴史的背景や政治状況、民族・宗教の違いが複雑に絡み合い、最終的に市民を巻き込む内戦へと発展しました。
出発前の予備知識をまとめた▶ボスニアヘルツェゴビナってどんな国?治安や歴史など旅行前に知っておきたい基本情報 もあわせてご覧ください。
民族・宗教の違いと旧ユーゴスラビア崩壊

かつてのユーゴスラビアは、多民族・多宗教国家でした。
ボスニア・ヘルツェゴビナには、主にボシュニャク人(イスラム教徒)、セルビア人(セルビア正教)、クロアチア人(カトリック)が共存して暮らしていました。
社会主義体制のもとでは表面化しにくかった民族間の緊張は、冷戦終結とともに旧ユーゴスラビアが解体へ向かう中、一気に噴き出します。
民族や宗教の違いが政治的に利用され、1992年、ボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言したことをきっかけに、民族対立は一般市民を巻き込んだ激しい武力衝突へと変わっていきました。
市民が最前線になった理由

首都サラエボは、多民族が混在する象徴的な都市でした。そのため、軍事的にも政治的にも重要な標的となり、街全体が約4年にわたり包囲されることになります。
戦争では通常、前線と後方があります。しかしサラエボでは、その区別がありませんでした。狙撃兵は周囲の山から市街地を見下ろし、通学や買い物といった日常の行動が命の危険と隣り合わせになりました。

山々からは狙撃や砲撃が続き、街の中では電気や水、食料が不足し、人々は常に命の危険にさらされながら生活していました。
戦争は前線だけで起きていたのではなく、市民の日常そのものが戦場だったのです。戦争の主な犠牲者は兵士ではなく、一般市民でした。この「市民が最前線に置かれた戦争」であったことが、サラエボ紛争の最大の特徴でもあります。
サラエボの現在|戦争の記憶とともに生きる街

1995年に紛争が終結してから、サラエボは少しずつ復興を進めてきました。しかし、この街では戦争の記憶を完全に消し去ることは選ばれていません。
観光地としてのサラエボ
現在のサラエボは、旧市街バシュチャルシヤ(Baščaršija)を中心に、カフェやレストランが立ち並び、観光客も多く訪れる街です。オスマン帝国時代とオーストリア=ハンガリー帝国時代の建築が混在する独特の街並みは、ヨーロッパでも珍しい存在です。
一見すると、戦争の影は感じられないかもしれません。しかし、少し視線を上げたり足元に注意を向けたりすると、街の表情は変わります。
街に残る戦争の痕跡

建物の壁に残る銃弾跡、舗道に刻まれたサラエボのバラ、あちこちに点在する小さな記念碑。これらは特別に保存された遺構ではなく、日常の風景の中に溶け込んで存在しています。
戦争を「展示物」にせず、生活の延長として残している点に、サラエボらしさを感じました。忘れないために、あえて消さない。その選択が、この街の空気を形づくっています。
若い世代が生きる今のサラエボ
紛争を直接知らない若い世代も、サラエボでは戦争の記憶とともに育っています。家族や街の中で語り継がれる経験は、教科書以上に強い意味を持っています。
同時に、彼らは音楽やアート、カフェ文化を通じて、未来志向のサラエボをつくろうとしています。過去を否定せず、しかしそこに縛られすぎない。その姿勢が、現在のサラエボを支えているように感じました。
サラエボの詳しい紹介やモデルコースは、▶サラエボ観光おすすめスポット13選と1日モデルコース!ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都を遊びつくそう で紹介しています。
命をつないだ地下道|サラエボ・トンネル博物館

空港近くの住宅地にある一軒の民家。そこが、サラエボ・トンネル博物館(Sarajevo Tunnel Museum)の入口でした。
観光施設らしい派手な看板はなく、知らなければ通り過ぎてしまいそうな場所です。
この地下トンネルは、包囲されたサラエボと外の世界を結ぶ唯一の生命線でした。
全長およそ800メートル。市民や兵士たちが手作業で掘り進め、食料や医薬品、武器、そして人の命がここを通って運ばれました。

博物館では、当時の映像や写真、実際に使われた道具が展示されています。
復元されたトンネルの一部に足を踏み入れると、その狭さと暗さに息が詰まりました。国家のためではなく、家族や隣人が生き延びるために掘られた道だったことが、強く伝わってきます。
街に残る小さな墓標|サラエボのバラ Sarajevo Roses

街のいたるところに戦争の痕跡が。
当時を生きた人々がそれを忘れることは不可能であり、当時を経験していない人々に何が起こったのかを知ってもらうために、街のいたるところに戦争の痕跡を残しています。

サラエボの街を歩いていると、舗道や路地の一角に、赤く塗り固められた跡を見つけることがあります。それが「サラエボのバラ」と呼ばれるものです。

これは、砲撃によってできた地面の傷に赤い樹脂を流し込み、犠牲者を追悼したものです。花の形に見えることから、その名がつきました。説明板があるわけではなく、観光案内にも大きくは載っていません。
何気なく歩いていた足元に突然現れるその痕跡は、強い現実感を伴って迫ってきます。ここで誰かが命を落とした。その事実が、日常の風景の中に静かに埋め込まれているのです。
子どもたちが失われた場所|べリキパーク

べリキパーク(Veliki Park)は、市民が憩う緑豊かな公園です。木々に囲まれたベンチでは、人々が静かに時間を過ごしています。一見すると、戦争とは無縁の穏やかな場所に見えます。
しかし、この公園では紛争中、子どもたちが犠牲になる事件が起きました。その事実を伝える碑は、あまりにも控えめに設置されています。注意深く見なければ、気づかずに通り過ぎてしまうほどです。

平和な風景と、過去に起きた悲劇。その落差が、この場所をいっそう重く感じさせました。
サラエボでは、悲しみは声高に語られることなく、静かにその場に置かれています。
数字と写真が語るジェノサイド|Gallery 11/07/95

Gallery 11/07/95は、1995年に起きたスレブレニツァ虐殺を記憶するためのギャラリーです。展示は極めて簡素で、感情的な演出はほとんどありません。

壁に並ぶのは、犠牲者の写真、証言、そして数字です。説明文を読み進めるほど、出来事の規模と残酷さがじわじわと迫ってきます。逃げ場のない展示空間は、見る側に「知る責任」を突きつけているようでした。
展示を見終えて外に出たとき、いつも通りに動く街の音が、少し遠く感じられました。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナの観光は、▶ボスニア・ヘルツェゴビナ観光で行ってよかったスポット10選!世界遺産から穴場まで で紹介しています。
戦争の記憶と共に未来へ向かうサラエボ

サラエボでは、戦争の痕跡と現在の日常が、ごく自然に共存しています。銃弾の跡が残る建物の前で、人々はコーヒーを飲み、笑顔で会話を交わしています。
忘れてしまったわけではない。けれど、記憶に縛られ続けることもない。そのバランスの中で、人々はこの街で生きています。
サラエボは、過去を消さずに抱えたまま、前へ進んでいる街でした。
旅を終えて:Lapinの旅日記

ボスニア・ヘルツェゴビナ ~Sarajevo サラエボ~
私たちが希望に溢れ、前途洋々の未来を思い描いていた頃
ここでは紛争が起こり、人々は未来に絶望していた。
私たちがおしゃれや恋に夢中になり、友達や恋人と微笑みあっていた頃
ここでは親友や恋人に銃を向け、血と涙を流しながら恐怖に怯えていた。
それほど遠くない歴史の中 同じ時代の出来事。

モスタルから首都サラエボへ。
嫌でも紛争の歴史を考えさせられずにいられない場所。
泊まったホステルの場所は、当時この道を歩けば100%命を落とすと言われた通称スナイパー通り。
街には砲弾で大量の死者を出した爆弾跡を赤く塗った「サラエボのバラ」と呼ばれる悲しいマークがあちこちにある。

歩いてすぐの公園前には、罪のない子供たちが砲弾をうけ集団で犠牲になった場所があり ひときわ赤く塗られた「バラ」と慰霊碑が行き場のない悲しみを引き受けるようにひっそりと建っている。
サラエボには紛争にまつわるミュージアムがたくさんあるのだけど 最初から最後まで泣きっぱなしだったミュージアム「Gallery 11/07/95」 当時の戦闘の様子やインタビューのフィルム、犠牲者の写真、皮肉ったアートなど 胸に深く深く突き刺さってくるものばかり。
「I’M YOUR BEST FRIEND I KILL YOU FOR NOTHING」
~私はあなたの親友で、何のためにあなたを殺すのですか~
どれほどの恐怖と脅迫感へ追い込まれたら 人は狂気に陥り友や恋人を撃つことが出来るのだろう。

想像を絶する痛みと悲しみ どんなニュースも簡単に引き出せる今、
けれど決して現場の痛みや悲しみ、本当の恐怖を伝えることは出来ない。
電波で受け取る遠い空のニュースは、チャンネルを変えれば胸の痛みは減り 電源を落とせば悲しみも記憶もやがて消え去っていく。
私はそうだった。
ボスニアって行って大丈夫なんだっけ?そんな程度の軽い認識しかなかった。
もっと世界を意識して生きなくてはいけないと思った。
これを書いている今も これを読んでいる今も 世界のどこかでは紛争している国があり 恐怖に怯えている人たちがいるということ みんなで世界平和を祈っても平和にはならない。
けれど、みんなで世界平和を意識していれば少しずつ変わっていけるかもしれない。
変えていかなくてはならない。
そう感じたボスニアの空の下。
それでも今はこの国の永遠の平和のために心を込めて Pray for the Sarajevo

追記:
今のボスニアは明るく平和に落ち着いています。
失くしたものの重さや痛みがわかるからなのか、ボスニア紛争は何だったんだろうと思うほどどこに行っても旧ユーゴの人たちは優しく温かい人ばかりでした。
砲弾跡を赤く塗り「バラ」として残していることも、悲しい歴史から目をそらさず、しっかりと受け止めて今を生きているのだと感じます。

モスタルで胸に響いた言葉、
DON’T FORGET BUT DO FORGIVE FOREVER
を思い出しました。
バスで隣に座ったおばあさんが、よく来たねというように突然私の手を握り、目を見つめながらうんうんと微笑み、 言葉がわからないのでお互いに懐き合うしかできなかったけど、 温かいおばあさんの手は、激動の時代を生き抜いてきた証を私に示してくれたように思えました。
Special thanks追記:
サラエボでポーランドを拠点に翻訳家として活躍されている須田さんという方にお会いしました。 ガイドもたじたじの完璧な英語。
彼のおかげでサラエボのバラの話や紛争にまつわる話を詳しく聞くことが出来ました。 よく考えたらプロの方に直接翻訳して頂きながら説明を聞けるなんてものすごく有り難いこと。
なのに失礼にも、出しそびれたハガキ出しといてください、とか余計なお願いまでしてしまった。今更反省。
出会いに感謝すると共に、日本人の素晴らしい海外での活躍にエールを送りたいと思います。
モスタルを訪れた時の旅ログは、▶モスタル旅行記|破壊された石橋スタリ・モストと赦しを選んだ街 で紹介しています。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争の記録まとめ

サラエボを旅しても、戦争を完全に理解したとは言えません。ただ、数字や出来事として知っていたものが、確かな重さをもって心に残るようになりました。
観光地として消費されるには、あまりにも多くの記憶を抱えた街です。だからこそ、歩き、立ち止まり、考える時間が必要なのだと思います。
サラエボは、静かに問いを投げかけてくる街でした。
その問いに、簡単な答えはありません。しかし、忘れずに考え続けること自体が、この街への向き合い方なのだと感じています。
多くの人がここを訪れ、考えるきっかけになればと願わずにいられません。
※当記事の情報は実際に旅した際の体験と、調査時点の情報をもとに執筆しています。可能な限り正確を期していますが、万が一情報に誤りや更新漏れがある場合は、お手数ですが「https://tabilapin.com/contact/」よりご連絡いただけますと幸いです。確認の上、迅速に対応・修正いたします。
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