
モスタル旅行記|破壊された石橋スタリ・モストと赦しを選んだ街【世界遺産】
目次
Toggleモスタルを訪れる前、スタリ・モストは「美しい石橋」として頭の中にありました。
世界遺産に登録され、観光客が集まる場所。写真で何度も見たアーチ状の橋は、どこか絵葉書のような存在だったのです。
しかし実際にその場に立ったとき、胸に込み上げてきたのは感動よりも、言葉にしづらい静けさでした。
ネレトヴァ川の上に架かるスタリ・モストは、確かに美しい。それでも、その美しさの奥に、決して消えることのない「記憶」が横たわっていることを、身体で感じました。
モスタールは、ボスニア紛争の中で深く分断された街です。
民族や宗教の違いは、人々の暮らしを引き裂き、1993年にはこの街の象徴であったスタリ・モストが、意図的に破壊されました。橋が壊れたことは、単なる建造物の損失ではありませんでした。人と人をつないできた象徴そのものが、目の前で崩されたのです。
それでも現在、スタリ・モストは再びこの地に架かっています。
完全に元通りになったわけではありません。むしろ、壊された過去を抱えたまま、それでも橋として存在し続けています。
街を歩いているとき、モスタールのカフェの屋根に書かれた一文が目に入りました。
「DON’T FORGET BUT DO FORGIVE FOREVER」
忘れるな、しかし永遠に赦せ。
この言葉は、過去を消し去ろうとするものではありません。
同時に、憎しみに縛られ続けることも選ばない。負の連鎖を断ち切り、未来へ進むための、非常に苦しく、そして勇気のいる選択だと感じました。
この旅行記では、モスタルの歴史とスタリ・モストの物語をたどりながら、なぜこの街が「赦し」という道を選ぼうとしているのかを見つめていきます。
それは決して簡単な答えのある旅ではありません。ただ、平和な未来について考えるための、大切な手がかりが、ここにはありました。
モスタルはどこにある?
モスタル(Mostar)は、ボスニア・ヘルツェゴビナ南部に位置する都市で、ネレトヴァ川(Neretva River)沿いに広がっています。
首都サラエボからは南西方向へ約130km、クロアチア国境にも近く、内陸とアドリア海沿岸を結ぶ要衝として発展してきました。
また、イスラム教の聖地ブラガイ観光の拠点にもなっています。
モスタルという街を理解するには、まずボスニア・ヘルツェゴビナという国がどんな歴史と背景を持つ場所なのかを知る必要があります。国の成り立ちや治安、民族構成など、旅の前に押さえておきたい基本情報は、こちらの記事で詳しくまとめています。
モスタルの行き方

サラエボからモスタルへの行き方
◆バス(最も一般的)
所要時間:約2.5〜3時間
本数:1日数本
出発:サラエボ・バスターミナル(Sarajevo Bus Station など)
到着:モスタル・バスターミナル(Mostar Bus Station)
山岳地帯と渓谷を抜けるルートで、車窓からの景色も美しく、観光客に最も利用されている移動手段です。
◆鉄道(時間に余裕があればおすすめ)
所要時間:約2時間
本数:1日数本
出発:サラエボ中央駅(Sarajevo Railway Station)
到着:モスタル駅(Mostar Railway Station)
ネレトヴァ川沿いを走る路線は、バルカン屈指の絶景ルートとして知られています。
遅延が出ることもありますが、景色重視なら鉄道も魅力的です。
首都サラエボは、東西の文化が交差し、ボスニアという国の複雑な歴史を肌で感じられる街です。サラエボを巡りたい方は、モデルコース付きの記事も参考にしてみてください。
▶サラエボ観光おすすめスポット13選と1日モデルコース!ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都を遊びつくそう
近隣国からモスタルへのアクセス

◆クロアチアから
・ドゥブロヴニク → モスタル
バスで約3〜4時間
観光客に非常に人気のルート
国境越えあり(パスポート必須)
・スプリト → モスタル
バスで約4〜5時間
本数は少なめなので事前確認がおすすめ
クロアチア沿岸部からボスニア内陸へ向かう移動として、モスタールはよく立ち寄られます。私もドゥブロヴニク → モスタルのルートで行きましたが、クロアチア側の車窓は美しくてすごく心に残っています。
◆モンテネグロから
・ポドゴリツァ → モスタル
直行便は少なく、途中乗り換えが必要な場合が多い
所要時間は長め(5〜7時間程度)
モスタル市内の移動
旧市街(スタリ・モスト周辺)は徒歩で十分回れる規模です。
バスターミナルや駅から旧市街までも、徒歩20〜30分程度、またはタクシーで数分です。
モスタルの歴史|分断の街が歩んできた道

モスタルは、ボスニア・ヘルツェゴビナ南部に位置する街です。エメラルドグリーンに輝くネレトヴァ川沿いに発展し、長い間、人と文化が行き交う場所として栄えてきました。
オスマン帝国時代から多民族都市へ
モスタルが街として形づくられたのは、16世紀のオスマン帝国時代です。交易の拠点として重要視され、イスラム文化を基盤としながらも、周辺地域からさまざまな民族や宗教を受け入れてきました。
オスマン帝国の支配下では、モスクや橋、バザールが整備され、モスタルは南部ボスニアを代表する都市へと成長します。やがてオーストリア=ハンガリー帝国の時代を迎えると、西欧的な建築や文化も流入し、街にはイスラム、カトリック、正教という異なる宗教文化が共存する独特の景観が生まれました。
この多様性こそが、モスタルの魅力であり、同時に後の悲劇の伏線でもありました。
ボスニア紛争と街の分断

1990年代初頭、旧ユーゴスラビアの崩壊とともに、民族間の緊張は急速に高まります。1992年にボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言すると、モスタルも紛争に巻き込まれました。
当初は外部勢力との戦闘が中心でしたが、やがて街は民族ごとに分断され、かつて隣人同士だった人々が敵として向き合う状況に追い込まれていきます。ネレトヴァ川は、単なる地理的な境界ではなく、民族を隔てる象徴的な線となりました。
学校や病院、インフラは破壊され、市民生活は崩壊していきます。モスタルは、軍事拠点ではなく、人々の暮らしそのものが戦場となった街でした。
橋が壊れたことの意味

1993年、モスタルの象徴であったスタリ・モストは、砲撃によって崩落しました。
この出来事は、単なる文化財の破壊ではありませんでした。何世紀にもわたり人々をつないできた橋が壊されたことは、「共存の否定」を世界に突きつける行為だったのです。
橋が失われた瞬間、街の分断は決定的なものとなりました。人と人を結んでいた物理的な通路が消えたことで、心理的な断絶もまた深まっていきます。
モスタルの歴史は、ここで大きな傷を負いました。しかし同時に、この出来事は、後に「再びつなぐ」という選択へと向かう、出発点にもなったのです。
スタリ・モストとは?破壊された橋、再び架けられた希望

スタリ・モスト(Stari Most)は、モスタールの旧市街に架かる石造りの橋です。その名は「古い橋」を意味し、16世紀、オスマン帝国時代に建設されました。設計を手がけたのは、オスマン帝国の建築家ミマール・ハイレディンとされています。
当時としては非常に大胆な構造で、ネレトヴァ川の両岸を大きなアーチで結ぶその姿は、技術的にも象徴的にも特別な存在でした。橋は単なる交通手段ではなく、人々の生活、交易、文化を結びつける中心的な役割を果たしていたのです。
人と人をつなぐ「象徴」としての橋

スタリ・モストは、異なる民族や宗教を持つ人々が日常的に行き交う場所でした。川のこちら側と向こう側は、分断される以前から異なる文化圏ではありましたが、橋があることで、違いは隔たりではなく「行き来できる距離」にとどまっていました。
結婚式の行列が橋を渡り、商人が行き交い、若者たちは橋の上で語り合う。スタリ・モストは、そうした日常の積み重ねによって、街の一部として息づいてきたのです。
だからこそ、この橋はモスタールにとって「建造物以上の存在」でした。共存が当たり前だった時代の記憶そのものでもあったのです。
1993年、意図的に破壊された橋

1993年11月、スタリ・モストは砲撃によって崩落しました。
それは戦闘の巻き添えではなく、意図的に破壊されたものでした。何世紀にもわたり街をつないできた橋が、目の前で崩れ落ちていく映像は、世界中に衝撃を与えました。
橋の破壊は、物理的な通路を失うこと以上の意味を持っていました。それは、多民族共存という理念そのものが否定された瞬間でもありました。人と人を結ぶ象徴が壊されたことで、街の分断は決定的なものとなったのです。
再建されたスタリ・モスト
戦争終結後、スタリ・モストは国際社会の支援を受けて再建されました。オリジナルの石材を可能な限り回収し、当時と同じ工法を再現するという、非常に困難なプロジェクトでした。
2004年、橋は再びネレトヴァ川に架けられ、翌年にはユネスコ世界遺産に登録されます。しかし、再建されたスタリ・モストは、単に「元に戻った橋」ではありません。
壊された過去を抱えたまま、それでも再び人をつなごうとする存在「友好の橋」。スタリ・モストは、モスタルが選び取った未来への姿勢そのものを体現しているように感じました。
「DON’T FORGET BUT DO FORGIVE FOREVER」 ――忘れない、でも憎しみに生き続けないという選択

モスタルの旧市街を歩いているとき、ふと目に入ったカフェの屋根に、その言葉は書かれていました。
DON’T FORGET BUT DO FORGIVE FOREVER
あまりにも簡潔で、あまりにも重い言葉でした。
一度読んだだけで意味は理解できるはずなのに、その場からすぐに立ち去ることができず、しばらく立ち尽くしてしまいました。
「忘れるな」という言葉は、モスタルという街において、とても現実的な意味を持っています。
ここでは、戦争は遠い過去ではありません。破壊された建物、街の分断、家族を失った記憶。それらは今も人々の暮らしの中に残っています。忘れようとして忘れられるものではないのです。

一方で、「赦せ」という言葉は、あまりにも過酷な要求にも思えました。
憎しみや怒りを抱えて当然の出来事が、ここでは確かに起きていたからです。赦すことは、簡単でも、きれいごとでもありません。
それでもこの言葉は、「忘れないこと」と「赦すこと」を対立させていませんでした。
どちらか一方を選ぶのではなく、両方を同時に抱え続けるという、極めて困難な選択を示していたのです。

復讐は、新たな復讐を生みます。
憎しみは、次の憎しみへと受け継がれていきます。
負の連鎖を断ち切るためには、どこかでその流れを止めなければなりません。
モスタールの人々が選ぼうとしているのは、過去を消すことではなく、未来を選ぶことなのだと感じました。
赦しとは、相手のためだけの行為ではありません。自分自身が、これ以上憎しみに縛られずに生きるための選択でもあります。
スタリ・モストが再び架けられたことも、この言葉と深く重なります。
壊された事実をなかったことにするのではなく、その記憶を抱えたまま、再び人をつなぐ。それは、モスタールが示した一つの答えでした。

この街では、赦しは声高に語られません。
カフェの屋根に、さりげなく書かれた一文として、日常の風景の中に存在しています。だからこそ、その言葉は、読む人の心に深く入り込むのだと思います。
モスタルは、過去に目を背けず、同時に未来をあきらめない街でした。
その姿勢は、戦争や紛争を「他人事」として生きる私たちにも、静かな問いを投げかけてきます。
首都サラエボでも、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争が街と人々に残した傷跡を辿りました。その体験は、こちらの記事にまとめています。
橋の上で見た“現在”のモスタル

スタリ・モストの上に立つと、まず目に入るのは、驚くほど透明なネレトヴァ川の流れでした。
エメラルドグリーンの水は静かに街を映し込み、かつてここが戦場だったとは、すぐには結びつかないほど穏やかです。

橋の両端には観光客が集まり、写真を撮り、笑い声が響いています。
露店では土産物が並び、近くのカフェからはコーヒーの香りが漂ってきます。
その光景だけを切り取れば、モスタルは「美しい旧市街を持つ観光地」に見えるかもしれません。
けれど、橋の中央に立ち、少し足を止めて周囲を見渡すと、この街が歩んできた時間の重みが、静かに伝わってきます。
旧市街の建物の中には、修復された部分と、あえて残された傷跡が混在しています。
それは「完全に元に戻った街」ではなく、「記憶とともに生きる街」であることを、無言のまま語っているようでした。

橋の上では、若者たちが川への飛び込みに挑戦しています。
観光客の拍手を受け、ためらいながらも意を決して飛び込むその姿は、勇気の象徴としてこの街の名物になっています。
けれど同時に、それは「ここが生きている場所である」という、何よりの証でもあるように感じました。
スタリ・モストは、過去と現在が交差する場所です。
破壊された歴史を知っているからこそ、ここで交わされる日常の一つひとつが、決して当たり前ではないものに見えてきます。
人が集まり、笑い、歩き、立ち止まること。
それ自体が、かつて奪われた「普通の暮らし」が、今ここに戻ってきている証なのだと思います。

橋の上に立ちながら、モスタルの「現在」は、過去を忘れることで成り立っているのではないと感じました。
むしろ、過去を知った上で、それでも日常を続けていくという、静かな選択の積み重ねの上に成り立っているのだと。
スタリ・モストは、観光名所である以前に、
「壊された記憶を抱えたまま、再び人と人をつなぐことを選んだ場所」なのだと思います。
その橋の上で見た現在のモスタルは、派手ではありませんが、確かに前を向いて歩いていました。
モスタールは、ボスニア・ヘルツェゴビナの中でも特に強い記憶を宿す街ですが、この国には他にも多様な表情を持つ場所が点在しています。
世界遺産から静かな穴場まで、実際に訪れて印象に残ったスポットは、別記事でまとめています。
旅を終えて|赦しは、未来を選ぶ行為

モスタルで過ごした時間を振り返ると、私の中にはずっとひとつの問いが残っています。
それは、「平和とは何か」という、とてもシンプルで、けれど簡単には答えの出ない問いでした。
橋は再建され、街には人が行き交い、日常は確かに戻っています。
けれどそれは、すべてがなかったことになったからではありません。
むしろ、壊された過去を知り、傷を抱えたまま、それでも歩みを止めなかった結果として、今のモスタルがあるのだと感じました。

サラエボからモスタルへと続いたこの旅の中で、私が強く感じた共通点があります。
それは、どちらの街も「忘れることで前に進んだ」のではなく、「記憶を抱えたまま、生きることを選んだ」という点です。
トンネル博物館やサラエボのバラ、慰霊の場として残された公園やギャラリー。
それらは過去を固定するためのものではなく、未来へ問いを手渡すために存在していました。
モスタルのスタリ・モストも同じです。
崩され、そして再び架け直された橋は、「壊された事実」を消すことなく、今も街の中心に立ち続けています。

モスタルのカフェの屋根に書かれていた
「DON’T FORGET BUT DO FORGIVE FOREVER」
という言葉が、旅の終わりに改めて胸に響きました。
赦すことは、過去を正当化することではありません。
忘れることでも、傷がなかったことにすることでもない。
赦しとは、憎しみによって未来を縛られ続けるのではなく、自分たちで未来を選び取る行為なのだと、私はこの街で教えられた気がします。
負の連鎖を断ち切るために必要なのは、声高な理想や、劇的な変化ではないのかもしれません。
過去を直視し、簡単に答えを出さず、それでも日常を積み重ねていくこと。
誰かを完全に理解できなくても、理解しようとし続ける姿勢。
その静かな選択の連続こそが、平和へとつながる道なのだと思います。

この旅で見た街の風景や、人々の営みは、決して遠い国の特別な物語ではありません。
私たちの社会や日常にも、形を変えて存在している問いです。
もしこの文章を読んで、ほんの一瞬でも立ち止まり、
「赦すとは何か」「未来を選ぶとはどういうことか」
を考えてもらえたなら、この旅は、私の中だけで終わらなかったのだと思います。
モスタルは、答えを与えてくれる街ではありません。
けれど、問いを静かに託してくれる街でした。
そしてその問いは、これからを生きる私たち一人ひとりに向けられているのだと、今はそう感じています。
Lapinの旅日記:モスタル編

ボスニア・ヘルツェゴビナ ~Mostar モスタル~
Mostar~モスタル~ 2つの民族を繋ぐ美しい橋 スタリ・モスト
通称:平和を祈る橋
オスマン・トルコ時代の16世紀、 西側にクロアチア系カトリックが住み、東側にはイスラム系が住んでいたこの街に建設されたこの橋は、 2つの民族をこの橋で繋ぎ、平和に共存をしていました。
ところが1991年に旧ユーゴスラビア内戦が勃発し、民族が入り混じるこの町は泥沼の戦いに巻き込まれ、 血を血で洗う抗争が繰り広げられ多くの住人が命を落しました。両民族の平和と共存を繋げていたスタリ・モスト橋も1993年に破壊されました。
今の姿は、内戦後、両民族の努力によって2004年に再建されたものだそうです。 平和で美しい街の中には、銃弾の残った民家や破壊された建物そんな悲しい歴史の爪痕がまだ至る所に残ってます。 橋を一望できるカフェの屋根に書いてあった言葉が深く心に突き刺さりました。
” Don’t forget but do forgive forever ”
直訳だと「忘れてはいけない、しかし永遠に許そう」 この言葉には深い深い重みと意味、教えがあると思います。

つい最近ここで悲惨な紛争が起きたとは思えないほど街の人たちは明るく親切でした。
それは、街の人たちの心にこの言葉があるからなのだと感じました。
モスタルの美しさは街並みだけではなく、人の心の中にあるのだと思います。
大切なことをたくさん教えてくれたモスタル。
2度と壊されることなく平和をこれからも繋げていきますように。
Pray for the Mostar
※当記事の情報は実際に旅した際の体験と、調査時点の情報をもとに執筆しています。可能な限り正確を期していますが、万が一情報に誤りや更新漏れがある場合は、お手数ですが「https://tabilapin.com/contact/」よりご連絡いただけますと幸いです。確認の上、迅速に対応・修正いたします。
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